日本の寝台車の100年

1 明治・大正時代の寝台車

 日本の寝台車が初めて導入されたのは、1900(明治33)年のことで、山陽鉄道(現JR西日本山陽線)が瀬戸内海の汽船に対抗するために大阪−三田尻(現防府)間急行(料金不要)に1等寝台車が連結されました。同年、当時国営だった官鉄も負けじと新橋−神戸間急行に米英から輸入した1等寝台車を連結しました。もちろん、どちらも特権階級を対象にしたもので、当時の3等運賃とほぼ同額でした。
 1903(明治36)年には、山陽鉄道の京都−下関間急行に寝椅子式2等寝台車が連結されると、1・2等寝台車が量産されるようになり、同年には日本鉄道(現JR東日本東北線)の上野−青森間列車、1905(明治38)年には官・私鉄直通の新橋−下関間急行に1等寝台車がそれぞれ連結され、1910年(明治43)年には新橋−神戸間急行にも2等寝台車が連結されました。この2等寝台車は、前後の出入り口付近は、窓に沿った長手座席の上に、折って収納されていた畳を下ろしてセットする一人床、中央部の4ブロックは4人掛けクロスシートがダブルベッドになる二人床でした。後者は欧米の夫婦旅行の習慣を持ち込んだもので、1859年に考案したアメリカのジョージ・M・プルマン(1831−97)にちなんでプルマン式寝台と呼ばれるようになりました。しかし、第一次世界大戦(1914−18)中にいわゆる戦争成金が芸者を連れ込んでの公序良俗に反する行為から、1918(大正7)年からは、現在に至る大人2人の使用が禁じられました。それとともに2等寝台1人床と2人床は、それぞれ並型・大型となり、翌年から寝台料金の上下段に格差が付けられました。

2 戦前の寝台車

 1927(昭和2)年、鋼製の1等寝台車が登場し、東海道・山陽・東北線で使用されました。これにより、鉄道の安全性がより大きくなり、交通競争でリードするようになりました。国民経済の拡大で3等客の利用が増えると、快適化の声が強まり、折からの不況による旅客離れを食い止めようと、背もたれに枕を取り付けた軽便枕に代わって、1931(昭和6)年に東海道線急行2往復に3等寝台車が連結されました。この寝台車は、定員を多く確保するためにドアのない区分室の3段式で、床幅も必要最小限に押さえられた窮屈なものでしたが、横になって脚を伸ばして眠れる上に、1・2等寝台より安く利用できることから、大好評を博しました。このレイアウトは、開放型B寝台として今に至っています。この3等寝台車により、1934(昭和9)年には3等座席車の軽便枕が廃止に追い込まれました。
 同じ1934(昭和9)年、東京−大阪間急行17・18列車に1等寝台3両、2等寝台5両が連結され、事実上の寝台専用列車となりました。そして、1940(昭和15)年には、1等寝台車は東海道・山陽の特急1と急行2の3往復しか連結されていませんでしたが、2・3等寝台は各地の夜行急行・長距離普通列車に連結されており、この中には東京−鳥羽、大阪−大社間など、当時の時代背景を伺わせるものもありました。
 しかし、この頃から軍需体制が敷かれると、長距離旅行は贅沢視され、1941(昭和16)年には3等寝台車は全て輸送力本位の3等座席車に改造され、残った1・2等寝台車も1944(昭和19)年に廃止されました。

3 戦後の寝台車

 1945(昭和20)年、戦争が終わりましたが、日本人は戦中よりひどいダイヤの中、すし詰めになった、窓ガラスもないオンボロ車両に命懸けで乗るのがやっとで、片やアメリカ中心の戦勝軍は、戦災を逃れた1・2等寝台車、食堂車などを片っ端から差し押さえては、日本人もタジタジの豪華な戦勝軍用列車に仕立て上げ、国内を大名旅行していました。戦勝軍用列車は、1946(昭和21)年から運転が開始され、東京−門司(後に佐世保延長)間「アライド・リミテッド」、東京−博多(後に佐世保延長)間「ディクシー・リミテッド」、上野(後に横浜延長)−札幌間(青函航路航走)「ヤンキー・リミテッド」などが走っていました。
 1948(昭和23)年には、東京−大阪間急行1往復と上野−旭川間(青函航路航走)急行に特別(翌年1等と改称)寝台車が連結、翌49(昭和24)年には2等寝台車も復活、戦後経済の回復により急行に再び連結されるようになりましが、まだやはり一般の日本人には乗れるものではありませんでした。1955(昭和30)年、1等客が航空機を利用するようになると、鉄道利用が少なくなり、1等寝台は2等寝台AとB、2等寝台はCとなりました。翌56(昭和31)年、軽量客車10系が新製され、3等寝台車(ナハネ10、後にオハネ10)も15年ぶりに復活し、国鉄の戦後が事実上終わりました。これに伴い、久々に復活した九州特急「あさかぜ」が運転を開始、58年には、その「あさかぜ」用に20系寝台車が作られました。20系寝台車は、当時高級品だった冷暖房付きの豪華なもので、その人気たるや、今の「北斗星」「カシオペア」「サンライズ(以下SR)瀬戸&出雲」「トワイライトエクスプレス(以下TWL)」などの比ではありませんでした。寝台車は、2等寝台A(ツインデラックス、以下A2)と2等寝台B(シングルデラックス、以下A1)の合造車ナロネ20、3等寝台ナハネ20などがありました。
 1960(昭和35)年の1等展望車の廃止による、2・3等の1・2等への変更、1964(昭和39)年以降の寝台特急の総寝台車化による「寝台専用列車」の時代の到来を経て、1967(昭和42)年、いざなぎ景気によるビジネス客の増加により、昼は座席車、夜は寝台車として使える581系、続いて583系が登場しました。581・583両系は「月光型」と呼ばれ、昼間の4人掛けクロスシートから3段式プルマン式寝台になる、まさに昼夜両用の車両で、東北・山陽・北陸・九州などで活躍していきます。また、分割併合も考えて貫通式にしましたが、これはついに生かされませんでした。
 1969(昭和44)年には、1・2等寝台がA・B寝台に改称、1972(昭和47)年には581・583両系のように分割併合できる客車14系が登場しました。しかし、同じ年、急行「きたぐに」が北陸トンネルで火災に遭い、耐火性についても考えられるようになりました。そこで、翌1973(昭和48)年には、耐火性を考慮した24系寝台、次いで1974(昭和49)年には、24系25型が造られ、これまでのB寝台が3段式からゆとりのある2段式に移行しました。A寝台個室(A1)も造られましたが、その個室の狭さから「引退後は留置場の独房にしか使えない」という批判もありました。

4 昭和低成長・平成時代の寝台車

 こうして多くの寝台車が作られていきましたが、オイルショックによる不況から、寝台列車の需要が減り、早くて安い航空機の時代に変わっていきました。1975(昭和50)年からは581・583両系が寝台のセットが面倒という理由で、廃車されたり、東北や北陸、九州の近郊用車両に改造されていきました。1978(昭和53)年には、14系に耐火性を備えた14系15型が造られましたが、これは2段式B寝台しか造られませんでした。
 こうして、寝台車は斜陽化の道を歩んでいきます。もちろん国鉄も利用客の減少をくい止めようと、3段式B寝台の2段化をはじめ、1984(昭和59)年には「さくら」「みずほ」に4人向けB寝台個室(カルテット、以下B4)を皮切りに、ロビーカー、2人向けB寝台個室(デュエット、以下B2)、A2が連結されるようになりました。
 1988(昭和63)年には、青函トンネル・瀬戸大橋の開通により、今まで無縁だった北海道・四国にも寝台特急が走るようになりました。特に青函トンネルを通る「北斗星(上野−札幌間)」は、ロビーカー、A2、ロイヤル、1人向けB寝台個室(ソロ、以下B1)、B2、食堂車と豪華なものでした。翌89(平成元)年には「TWL(大阪−札幌間)」がA2より豪華なスイート、B1、B2より豪華なシングルツイン、ツインを連結して運転され、91(平成3)年には「北斗星(上野〜札幌間)」のグレードアップを前提に「夢空間(スイート&ロイヤル、グレートロビーカー、食堂車の3両)」が作られました。
 しかし、国鉄やJRのこうした改革も、夜行バスの台頭などで焼け石に水でした。1993(平成5)年から寝台特急が次々と減らされ、「出羽(上野−秋田間、上越・羽越線経由)」「鳥海(上野−青森間、上越・羽越線経由)」「ゆうづる(上野−青森間、常磐線経由)」「みずほ(東京−熊本・長崎間)」「つるぎ(大阪−新潟間)」がその犠牲となり、寝台車を連結した急行も特急化や総座席車化などで「利尻(札幌−稚内間、2000(平成12)年3月から特急化)」「はまなす(札幌−青森間)」「銀河(東京−大阪間)」「きたぐに(大阪−新潟間)」だけになってしまいました。
 ただ、1998(平成10)年にはこれまでの「瀬戸」「出雲3・2号」に代わり「SR瀬戸&出雲(東京−高松・出雲市間)」が総2階建ての寝台列車として登場、翌99(平成11)年には「カシオペア(上野−札幌間)」が「北斗星」「TWL」以上の豪華さで運転を開始しています。このような車両が、いにしえの20系を越える車両であってほしいと思いつつ、筆を置くことにします。
5 追記

 この追記は、この文章を執筆してから10年後の2010(平成22)年に再執筆しましたが、その間に数多くの寝台車付きの列車が次々と廃止されてしまい、現在残っている列車は、特急では「北斗星(上野−札幌間)」「あけぼの(上野−青森間)」「日本海(大阪−青森間)」、「SR瀬戸&出雲(東京−高松・出雲市間、岡山で着け放し)」、臨時特急では「カシオペア(上野−札幌間)」「TWL(大阪−札幌間)」、急行では「はまなす(札幌−青森間)」、「きたぐに(大阪−新潟間)」だけとなってしまい、「十年一昔」「光陰矢のごとし」を感じさせられます。これらの車両もほとんどがおんぼろになっているので、乗る気が萎える列車に落ちぶれているのが実情です。
 私はこのような現実を感じて、「時代の流れであり、懐かしんでも仕方ない」と思いながらも、「スピードアップや利用客の乗る気をくすぐるような策を立てていれば、列車のいくつかは残ったのに」と思わずにはおられません。


参考文献
大久保邦彦&曽田英夫共著「新・列車名大研究」JTB
寺本光照著「これでいいのか、夜行列車」中央書院
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